Category: ドライブ
巨木廻りになりました
昨日の記事に書いた、船岡城址公園に残った樅の木を後にして、TTは宮城県の最南端、丸森町へ。さらに山奥の筆甫ひっぽ地区です。

県内の桜ファンには有名な一本桜がああるのです。筆甫の親王桜。

ググッてみるとトップに出てくる某HPから引用すると、
薬師堂の境内にあり、「親王桜」と呼ばれるウバヒガン桜。
ウバヒガンはエドヒガンの別名。
建武2(1335)年、陸奥守・北畠顕家(あきいえ)が
義良(のりなが)親王(後醍醐天皇第8王子)を伴い
この地に訪れた際に植えたものと伝わっている。
樹齢は推定で670年以上。
町の天然記念物に指定されている。
すごいですね、建武の新政の期間ですよ。染井吉野は短命で、こんなに生きられません。

義良親王はのちの後村上天皇です。ウィキペディアによれば、
元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡し、父の後醍醐天皇が建武の新政を始めると、幼い親王は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に陸奥守北畠顕家・北畠親房に奉じられて奥州多賀城へと向かう。建武2年(1335年)に足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子と共に尊氏討伐のために京都へ引き返す。比叡山で元服を行い、同3年(1336年)に尊氏が京都で敗れて九州落ちすると再び奥州へ戻るが、延元2年/建武4年(1337年)多賀城が襲撃されたため西国に戻る。足利尊氏は京都を奪還し、後醍醐らは吉野へ逃れて南朝を成立させる。後醍醐天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自分の皇子を派遣する中、義良も同3年/建武5年(1338年)に宗良親王や北畠親房らとともに伊勢国大湊から奥州へ向かうが、途中で暴風に遭い一行は離散し、義良は吉野に戻る。同4年/暦応2年(1339年)皇太子になり、同年の8月15日に後醍醐天皇から死の直前に譲位され即位する。
別の角度から。

傍らに水芭蕉もありました。枯れ始めてますけど。

有名な場所の割には、数人しか訪れていませんでした。
筆甫に来たらお昼はいつも此処。

清流庵です。以前の記事はこちら。
11時前に着いてしまったので、しばし親方と談笑。

その後、突然親方に呼ばれて二階へ上がる階段の踊り場へ。庵主さまです。

ねずみよけになるし、大事にしているのだとか。

毎度ほっとさせられる民家の客間風のお座敷。

おなかがすいたので、筆そばセット(かやくご飯付き)大盛りを頼みました。1155円。

寒晒し終わっちゃったんですかーーなどと騒いでいたら、特別に親方が出してくれました。残ってたのね。

美味かったです。
来る道は東北道から大河原経由だったので、帰りは6号線常磐道コース。
腹ごなしに途中のお寺さんを散策することにしました。

亘理の称名寺。夏には蓮、秋には黄色い彼岸花が咲くお寺です。

白梅に枝垂桜。

水芭蕉まで咲いていました、これはラッキーなタイミング。日頃の行いが良いんでしょうね。

このお寺を知ったのは、伯父に教えられたのが最初でした。
日本百名山を制覇するほどの山好きだった伯父は、山に登れなくなってからは、青春18切符を使って巨木銘木を見てまわるのを趣味としていたのです。

それで父が入院している時に、宇都宮から一度お見舞いに来てくれて、その時調べて案内したのが仙台周辺の巨木めぐり。
銀杏町の乳銀杏、北山のマルミガヤと共にここに来たのでした。
樹齢600年を超えると言われる椎の木です。
神が宿っていると言うか、むしろ神様のような巨木。

国道6号線を北上中、亘理の市街に入る直前に、もう一本の少し若い椎の木と一緒に聳えています。
年老いた伯父は、各地の巨木を巡って人生の儚さを感じ取っていたのかも知れません。

称名寺、四季の花々も楽しめるお寺です。

県内の桜ファンには有名な一本桜がああるのです。筆甫の親王桜。

ググッてみるとトップに出てくる某HPから引用すると、
薬師堂の境内にあり、「親王桜」と呼ばれるウバヒガン桜。
ウバヒガンはエドヒガンの別名。
建武2(1335)年、陸奥守・北畠顕家(あきいえ)が
義良(のりなが)親王(後醍醐天皇第8王子)を伴い
この地に訪れた際に植えたものと伝わっている。
樹齢は推定で670年以上。
町の天然記念物に指定されている。
すごいですね、建武の新政の期間ですよ。染井吉野は短命で、こんなに生きられません。

義良親王はのちの後村上天皇です。ウィキペディアによれば、
元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡し、父の後醍醐天皇が建武の新政を始めると、幼い親王は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に陸奥守北畠顕家・北畠親房に奉じられて奥州多賀城へと向かう。建武2年(1335年)に足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子と共に尊氏討伐のために京都へ引き返す。比叡山で元服を行い、同3年(1336年)に尊氏が京都で敗れて九州落ちすると再び奥州へ戻るが、延元2年/建武4年(1337年)多賀城が襲撃されたため西国に戻る。足利尊氏は京都を奪還し、後醍醐らは吉野へ逃れて南朝を成立させる。後醍醐天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自分の皇子を派遣する中、義良も同3年/建武5年(1338年)に宗良親王や北畠親房らとともに伊勢国大湊から奥州へ向かうが、途中で暴風に遭い一行は離散し、義良は吉野に戻る。同4年/暦応2年(1339年)皇太子になり、同年の8月15日に後醍醐天皇から死の直前に譲位され即位する。
別の角度から。

傍らに水芭蕉もありました。枯れ始めてますけど。

有名な場所の割には、数人しか訪れていませんでした。
筆甫に来たらお昼はいつも此処。

清流庵です。以前の記事はこちら。
11時前に着いてしまったので、しばし親方と談笑。

その後、突然親方に呼ばれて二階へ上がる階段の踊り場へ。庵主さまです。

ねずみよけになるし、大事にしているのだとか。

毎度ほっとさせられる民家の客間風のお座敷。

おなかがすいたので、筆そばセット(かやくご飯付き)大盛りを頼みました。1155円。

寒晒し終わっちゃったんですかーーなどと騒いでいたら、特別に親方が出してくれました。残ってたのね。

美味かったです。
来る道は東北道から大河原経由だったので、帰りは6号線常磐道コース。
腹ごなしに途中のお寺さんを散策することにしました。

亘理の称名寺。夏には蓮、秋には黄色い彼岸花が咲くお寺です。

白梅に枝垂桜。

水芭蕉まで咲いていました、これはラッキーなタイミング。日頃の行いが良いんでしょうね。

このお寺を知ったのは、伯父に教えられたのが最初でした。
日本百名山を制覇するほどの山好きだった伯父は、山に登れなくなってからは、青春18切符を使って巨木銘木を見てまわるのを趣味としていたのです。

それで父が入院している時に、宇都宮から一度お見舞いに来てくれて、その時調べて案内したのが仙台周辺の巨木めぐり。
銀杏町の乳銀杏、北山のマルミガヤと共にここに来たのでした。
樹齢600年を超えると言われる椎の木です。
神が宿っていると言うか、むしろ神様のような巨木。

国道6号線を北上中、亘理の市街に入る直前に、もう一本の少し若い椎の木と一緒に聳えています。
年老いた伯父は、各地の巨木を巡って人生の儚さを感じ取っていたのかも知れません。

称名寺、四季の花々も楽しめるお寺です。
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