Category: 美味いもん
これが元祖では?
さて勝どきの宿に荷物を置いたのがちょうど昼どき。勝どきで昼どき。
今回はこの二冊が旅のお供なんです。

事前に取り寄せた2010年7月号の東京人と、仙台駅で買ったガイドブック。
東京下町散歩に依れば、一番近い食堂街は、ここです。

こんな通りがあることは、頭の隅にはインプットされてたと思いますが、驚きの通り。

月島もんじゃストリートです。

ガイドブックによると、80軒以上のもんじゃ焼き屋が文字通り軒を連ねています。
例によってウィキから引用。
もんじゃ焼き(もんじゃやき)は、小麦粉を主体とした、いわゆる「粉もの」料理の一つで、材料を鉄板で調理して食べる。「もんじゃ」と呼ばれる事も多く、「もんじやき」「ぼったら」「おいの」と呼ぶ地域もある。
もんじゃ焼きを食べる地域は日本各地にあり各地の特徴がある。

もんじゃ焼きの原型は、安土桃山時代に千利休が作らせていた「麩の焼き」である。「麩の焼き」とは、巻いた形が巻物経典を彷彿とさせる事から、仏事用の菓子として使われていたもので、「秋の膳」の和菓子であり、茶会の茶菓子として千利休が作らせていた。

「麩の焼き」が江戸に伝わり、江戸時代末期に「麩の焼き」に使われていた味噌に替えて餡を巻く「助惣焼」ができた。この「助惣焼」は東京の麹町で生まれ、明治時代には「助惣焼」を原型に「もんじゃ焼き」が生まれた。
こんなにたくさんあって、よく商売になるもんですね。
大晦日イブということで、閉まっている店も一割強。

もんじゃ焼きは、小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴である。鉄板にコテで押さえつけて焼きながら食べるので、鉄板に接する外部は食感がパリッとしているが、押さえつけが足りない部分などはトロッとしている。
現在は、東京の下町と埼玉県南部・東部、群馬県東部と栃木県南部に店が多い。
メインストリートから逸れた横丁にも。

1819年刊の『北斎漫画』に、「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代既に江戸にもんじゃ焼きに類するものがあったことが分かっている。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、「もんじ焼き」これが「もんじゃ焼き」となったとの説と、豪商の子息で大酒飲みの「門次郎」と呼ばれる男に由来する説とがある。東京都台東区浅草近辺が発祥地とされる事が多いようである。
過去に盛んであった隅田川の物流、近代開通した地域の大動脈である東武伊勢崎線、旧奥州街道である国道4号などの集積地であるこの付近を基点に、関東の他の地域に伝播したと言われている(異説もあり。群馬のもんじゃ焼き参照)。後に、このもんじゃが変化して「お好み焼き」「どんどん焼き」が出来上がった。

お好み焼き屋だと、一人でも席につきやすいカウンターがあったりするもんですが、覗いてみてもボックス席だけの店ばかりです。
大勢並んでいる店は、有名店なんでしょうが、そんなに味に大きな差がつきそうな料理ではないと思われ、ほどほどに混んでいる店を選びました。いつも通り。

上の写真は、飲食後のもので、入るときは行列もなく、数席空いていたんです。
幸い二人席もある店でした。

並んでる店の四人席に一人では食べにくいし。

豚肉もんじゃ900円です。
お好み焼き屋で食べたことはあるけど、誰かが薀蓄垂れながら焼いてくれてたので、自分で焼くのは初めて。
お姉さんに正直に申告して指導を受けます。

まずは肉だけ先に炒めてろと。茶色い紐は鰹節かな。スルメかも。
壁にマニュアルが貼ってあるので、何度も読み返します。

東京・下町の駄菓子屋には、昭和初期から昭和40年代ころまでは大抵、もんじゃ焼きの鉄板があった。昭和20年代は物資が欠乏していたため、単にうどん粉を水で溶き、味付けしただけのものが多かったが、昭和30年代も中頃をすぎると、キャベツはもちろん、切りイカなど具の種類も増えていった。もんじゃ焼きはかつて、下町を中心とした子供達に親しまれていたが、近年は食文化の変化、駄菓子屋の減少から子供達に食べられなくなってしまった。
そう言えば、初めてもんじゃ焼きという名前を聞いたのは、中学生の頃、宇都宮の従兄弟から。駄菓子屋で焼くという話でしたが、祖師谷の駄菓子屋にはありませんでした。
忙しく通路を行き来するお姉さんが、せっせと手を動かす私の鉄板をチェックしています。

近年、もんじゃ焼きは東京下町の伝統的な食べ物として全国的に認知されるようになった反面、その客層が観光客やサラリーマンなどに代わり、酒のお供として食されるようになった。駄菓子屋自体が激減している昨今ではあるが、相変わらず現存する駄菓子屋もんじゃもあり、1杯あたり80円〜300円といった昔ながらの価格で提供されている。店によりけりではあるが、価格差は量の違いであり、種類は上記昭和30年代のタイプの1種類というのが基本である。
肉の焼け具合に満足したのか、次に具の入った丼から、汁以外をぶちまけます。

ほとんどキャベツですね。
東京のもんじゃ屋は、東京都全域に分布しているわけではなく、比較的特定の区域に集中する傾向にある。特に下町地区に多く、今でも一般的に食べられる。古い店があるのは墨田区・江東区・台東区・北区・足立区・荒川区・練馬区等。もんじゃに必要とも言われるラメックだが、ベビースターラーメン(初期は、松田産業のベビーラーメン〕小売としては販売していない業務用のそれを用いて、ソースはユニオンソースを使用し、当時と同じ味を提供している。
再び炒め方が始まります。ビールを呑む時間もありません。

せっせこせっせこ。
観光地として有名なのは、月島と浅草である。
山の手地区においても、繁華街でもんじゃ焼きの店は確認できるが、同じ東京都内でもこれらの地域への浸透は低い。

じゅうぶん火が通ったら、お姉さんが、土手を作ってだし汁を注入します。

だし汁にはすでに特製ソースも混ぜられています。

液体が温まってトロミがつき始めた頃、混ぜ方開始。
これはお姉さんが作ってくれました。

どうぞと言われて食べ始めます。

味が薄めなので、ソースを追加。
トロトロです。もうちょっとヘラで押し付けてウエルダンにした方が良いのかも。
焦げも美味でした。

ひょっとして、歴史的な、元祖B級グルメではないでしょうか。
今回はこの二冊が旅のお供なんです。

事前に取り寄せた2010年7月号の東京人と、仙台駅で買ったガイドブック。
東京下町散歩に依れば、一番近い食堂街は、ここです。

こんな通りがあることは、頭の隅にはインプットされてたと思いますが、驚きの通り。

月島もんじゃストリートです。

ガイドブックによると、80軒以上のもんじゃ焼き屋が文字通り軒を連ねています。
例によってウィキから引用。
もんじゃ焼き(もんじゃやき)は、小麦粉を主体とした、いわゆる「粉もの」料理の一つで、材料を鉄板で調理して食べる。「もんじゃ」と呼ばれる事も多く、「もんじやき」「ぼったら」「おいの」と呼ぶ地域もある。
もんじゃ焼きを食べる地域は日本各地にあり各地の特徴がある。

もんじゃ焼きの原型は、安土桃山時代に千利休が作らせていた「麩の焼き」である。「麩の焼き」とは、巻いた形が巻物経典を彷彿とさせる事から、仏事用の菓子として使われていたもので、「秋の膳」の和菓子であり、茶会の茶菓子として千利休が作らせていた。

「麩の焼き」が江戸に伝わり、江戸時代末期に「麩の焼き」に使われていた味噌に替えて餡を巻く「助惣焼」ができた。この「助惣焼」は東京の麹町で生まれ、明治時代には「助惣焼」を原型に「もんじゃ焼き」が生まれた。
こんなにたくさんあって、よく商売になるもんですね。
大晦日イブということで、閉まっている店も一割強。

もんじゃ焼きは、小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴である。鉄板にコテで押さえつけて焼きながら食べるので、鉄板に接する外部は食感がパリッとしているが、押さえつけが足りない部分などはトロッとしている。
現在は、東京の下町と埼玉県南部・東部、群馬県東部と栃木県南部に店が多い。
メインストリートから逸れた横丁にも。

1819年刊の『北斎漫画』に、「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代既に江戸にもんじゃ焼きに類するものがあったことが分かっている。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、「もんじ焼き」これが「もんじゃ焼き」となったとの説と、豪商の子息で大酒飲みの「門次郎」と呼ばれる男に由来する説とがある。東京都台東区浅草近辺が発祥地とされる事が多いようである。
過去に盛んであった隅田川の物流、近代開通した地域の大動脈である東武伊勢崎線、旧奥州街道である国道4号などの集積地であるこの付近を基点に、関東の他の地域に伝播したと言われている(異説もあり。群馬のもんじゃ焼き参照)。後に、このもんじゃが変化して「お好み焼き」「どんどん焼き」が出来上がった。

お好み焼き屋だと、一人でも席につきやすいカウンターがあったりするもんですが、覗いてみてもボックス席だけの店ばかりです。
大勢並んでいる店は、有名店なんでしょうが、そんなに味に大きな差がつきそうな料理ではないと思われ、ほどほどに混んでいる店を選びました。いつも通り。

上の写真は、飲食後のもので、入るときは行列もなく、数席空いていたんです。
幸い二人席もある店でした。

並んでる店の四人席に一人では食べにくいし。

豚肉もんじゃ900円です。
お好み焼き屋で食べたことはあるけど、誰かが薀蓄垂れながら焼いてくれてたので、自分で焼くのは初めて。
お姉さんに正直に申告して指導を受けます。

まずは肉だけ先に炒めてろと。茶色い紐は鰹節かな。スルメかも。
壁にマニュアルが貼ってあるので、何度も読み返します。

東京・下町の駄菓子屋には、昭和初期から昭和40年代ころまでは大抵、もんじゃ焼きの鉄板があった。昭和20年代は物資が欠乏していたため、単にうどん粉を水で溶き、味付けしただけのものが多かったが、昭和30年代も中頃をすぎると、キャベツはもちろん、切りイカなど具の種類も増えていった。もんじゃ焼きはかつて、下町を中心とした子供達に親しまれていたが、近年は食文化の変化、駄菓子屋の減少から子供達に食べられなくなってしまった。
そう言えば、初めてもんじゃ焼きという名前を聞いたのは、中学生の頃、宇都宮の従兄弟から。駄菓子屋で焼くという話でしたが、祖師谷の駄菓子屋にはありませんでした。
忙しく通路を行き来するお姉さんが、せっせと手を動かす私の鉄板をチェックしています。

近年、もんじゃ焼きは東京下町の伝統的な食べ物として全国的に認知されるようになった反面、その客層が観光客やサラリーマンなどに代わり、酒のお供として食されるようになった。駄菓子屋自体が激減している昨今ではあるが、相変わらず現存する駄菓子屋もんじゃもあり、1杯あたり80円〜300円といった昔ながらの価格で提供されている。店によりけりではあるが、価格差は量の違いであり、種類は上記昭和30年代のタイプの1種類というのが基本である。
肉の焼け具合に満足したのか、次に具の入った丼から、汁以外をぶちまけます。

ほとんどキャベツですね。
東京のもんじゃ屋は、東京都全域に分布しているわけではなく、比較的特定の区域に集中する傾向にある。特に下町地区に多く、今でも一般的に食べられる。古い店があるのは墨田区・江東区・台東区・北区・足立区・荒川区・練馬区等。もんじゃに必要とも言われるラメックだが、ベビースターラーメン(初期は、松田産業のベビーラーメン〕小売としては販売していない業務用のそれを用いて、ソースはユニオンソースを使用し、当時と同じ味を提供している。
再び炒め方が始まります。ビールを呑む時間もありません。

せっせこせっせこ。
観光地として有名なのは、月島と浅草である。
山の手地区においても、繁華街でもんじゃ焼きの店は確認できるが、同じ東京都内でもこれらの地域への浸透は低い。

じゅうぶん火が通ったら、お姉さんが、土手を作ってだし汁を注入します。

だし汁にはすでに特製ソースも混ぜられています。

液体が温まってトロミがつき始めた頃、混ぜ方開始。
これはお姉さんが作ってくれました。

どうぞと言われて食べ始めます。

味が薄めなので、ソースを追加。
トロトロです。もうちょっとヘラで押し付けてウエルダンにした方が良いのかも。
焦げも美味でした。

ひょっとして、歴史的な、元祖B級グルメではないでしょうか。
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Comments
あけおめことよろ(古い?)です。
もんじゃって、絵面が難しくて撮りにくいと思ってたけど
最後のおコゲ画像はおいしそー♪
ただ、この手の食べ物はビールが欠かせないので
食べ終わると身体中が水ぶくれしてる気がします。私だけか?^^;
もんじゃって、絵面が難しくて撮りにくいと思ってたけど
最後のおコゲ画像はおいしそー♪
ただ、この手の食べ物はビールが欠かせないので
食べ終わると身体中が水ぶくれしてる気がします。私だけか?^^;