Category: ドライブ
18850通りの悲劇がある
友人を引き連れての、宮城沿岸ツーリング。
矢本、石巻、女川、雄勝、北上に続いてやってきたのは、志津川。

ずっと続いた悲しい海岸沿いですが、この観光スポットは無事なのでしょうか。

隣接するオートキャンプ場は、仮設住宅で埋まっていましたが、この名勝は無事のようです。

ただ、観光客は皆無。

志津川にあると信じていた神割崎ですが、ぎりぎり石巻市でした。

このあと、思い出の場所へ。

志津川津の宮にあった民宿潮風。

何度も美味しい海の幸を満喫させていただいた場所。
こちらは2007年に来た時の画像です。

2006年に行った時も、台風の後で、船や養殖施設が打ち上げられて、大変な事になっていたのですが、それでも、今思えば、大したことはありませんでしたね。
こちらも2007年撮影。

潮風よりも低い場所に並んでいた民家や民宿、食堂。

影も形もなくなっています。
かろうじて残っていた、潮風の看板もぐにゃぐにゃ。

もっと広かったような気がする潮風の敷地、ちょうど土台の撤去が終わったところのようでした。

どうなるのでしょう。
噂によると、民宿スタッフの皆さんは、いち早く逃げて今は仙台に住まわれているとか。
ご無事なのが何よりです。

漁港には仮設の牡蠣剥き場も出来ていて、作業をされている方も大勢。
戸倉地区は高台の復興住宅建設も決まりましたから、漁民の皆さんは、そちらに住んで漁業を続けることになるのでしょうね。
by ヨシオ
そして志津川の中心部へ。
2005年に歌津と合併して、南三陸町になりましたが、2000年から仙台で暮らす私にとっても、まだ南三陸町という名前はしっくり来ません。いずい。
しかし、その町の名前は、悲しい想い出とともに、有名になっていたのでした。

水産物のお店や、加工工場、食堂が並んでいた商店街、土台だけになっています。
そして、町の防災庁舎。手を合わせる人々が絶えません。

今朝の河北新報によれば、震災による宮城県内の、死者数は9536人、行方不明者は今も1302人。
全国では死者行方不明者合わせて、18550人。
そこには、18550以上の悲しいストーリーがあるわけで、報道がその中のひとつを取り上げることで、その他の悲しみを忘れていると感じることがあります。
今回は行く先々で、なくなった方たちを想い、何度と手を合わせてきました。

いろいろな意見はありますが、被災地が復興するためにも、このような遺構は残されるべきと考えます。

しかしそれにしても悲しい。
いつも強い風が吹く場所です。

悲しいほど、お天気。

街があった地域、おそらくそれぞれの家や商店の敷地に立つパネル。

見渡すと、沢山立っています。

次回ゆっくり歩いて見て回りたいと想いました。ポタリングかな。

その頃には復旧工事ももっと進んでいますように。

海岸沿いのツーリングはここで終了。
友人が、いろいろ感じて、どこかでそれを語り継いで行ってくれると思います。
一山越えて、みやぎの明治村、登米。

志津川の皆さんが多く避難生活を送っている地域です。

2007年に志津川に泊まったあとも、此処に来ていました。
国の重文、旧登米高等尋常小学校。

明治21年、1888年建築。

私と友人が通った小学校も6年生の時に新校舎が出来るまでは木造でしたが、ここも昭和48年までは使われていたということで、私達と同じ年の子供は通っていたことになりますね。

みやぎの明治村探訪記はこちら。
今回ここをツーリングコースに盛り込んだ理由。

はっと屋台村が開催中だったのでした。
しかし到着したのはちょうど終了時刻を過ぎた15時。

ここで昼飯のはずだったのに、大幅にプランから外れる、いつもと同じツーリングでした。
今回の機材は、ごく一部(iPhone4s)を除いて、Pentax K-5Ⅱs+FA*24mm/F2.0です。つづく。
矢本、石巻、女川、雄勝、北上に続いてやってきたのは、志津川。

ずっと続いた悲しい海岸沿いですが、この観光スポットは無事なのでしょうか。

隣接するオートキャンプ場は、仮設住宅で埋まっていましたが、この名勝は無事のようです。

ただ、観光客は皆無。

志津川にあると信じていた神割崎ですが、ぎりぎり石巻市でした。

このあと、思い出の場所へ。

志津川津の宮にあった民宿潮風。

何度も美味しい海の幸を満喫させていただいた場所。
こちらは2007年に来た時の画像です。

2006年に行った時も、台風の後で、船や養殖施設が打ち上げられて、大変な事になっていたのですが、それでも、今思えば、大したことはありませんでしたね。
こちらも2007年撮影。

潮風よりも低い場所に並んでいた民家や民宿、食堂。

影も形もなくなっています。
かろうじて残っていた、潮風の看板もぐにゃぐにゃ。

もっと広かったような気がする潮風の敷地、ちょうど土台の撤去が終わったところのようでした。

どうなるのでしょう。
噂によると、民宿スタッフの皆さんは、いち早く逃げて今は仙台に住まわれているとか。
ご無事なのが何よりです。

漁港には仮設の牡蠣剥き場も出来ていて、作業をされている方も大勢。
戸倉地区は高台の復興住宅建設も決まりましたから、漁民の皆さんは、そちらに住んで漁業を続けることになるのでしょうね。

そして志津川の中心部へ。
2005年に歌津と合併して、南三陸町になりましたが、2000年から仙台で暮らす私にとっても、まだ南三陸町という名前はしっくり来ません。いずい。
しかし、その町の名前は、悲しい想い出とともに、有名になっていたのでした。

水産物のお店や、加工工場、食堂が並んでいた商店街、土台だけになっています。
そして、町の防災庁舎。手を合わせる人々が絶えません。

今朝の河北新報によれば、震災による宮城県内の、死者数は9536人、行方不明者は今も1302人。
全国では死者行方不明者合わせて、18550人。
そこには、18550以上の悲しいストーリーがあるわけで、報道がその中のひとつを取り上げることで、その他の悲しみを忘れていると感じることがあります。

今回は行く先々で、なくなった方たちを想い、何度と手を合わせてきました。

いろいろな意見はありますが、被災地が復興するためにも、このような遺構は残されるべきと考えます。

しかしそれにしても悲しい。
いつも強い風が吹く場所です。

悲しいほど、お天気。

街があった地域、おそらくそれぞれの家や商店の敷地に立つパネル。

見渡すと、沢山立っています。

次回ゆっくり歩いて見て回りたいと想いました。ポタリングかな。

その頃には復旧工事ももっと進んでいますように。

海岸沿いのツーリングはここで終了。
友人が、いろいろ感じて、どこかでそれを語り継いで行ってくれると思います。
一山越えて、みやぎの明治村、登米。

志津川の皆さんが多く避難生活を送っている地域です。

2007年に志津川に泊まったあとも、此処に来ていました。
国の重文、旧登米高等尋常小学校。

明治21年、1888年建築。

私と友人が通った小学校も6年生の時に新校舎が出来るまでは木造でしたが、ここも昭和48年までは使われていたということで、私達と同じ年の子供は通っていたことになりますね。

みやぎの明治村探訪記はこちら。
今回ここをツーリングコースに盛り込んだ理由。

はっと屋台村が開催中だったのでした。
しかし到着したのはちょうど終了時刻を過ぎた15時。

ここで昼飯のはずだったのに、大幅にプランから外れる、いつもと同じツーリングでした。
今回の機材は、ごく一部(iPhone4s)を除いて、Pentax K-5Ⅱs+FA*24mm/F2.0です。つづく。
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