Category: 祭りだワッショイ
これもひとつのmeeting
さて、こちらは南相馬市鹿島区のJAにある、北郷本陣。

相馬野馬追の行事予定表によれば、総大将お出迎えという儀式になります。

本陣を張った北郷の副大将のもとに、宇多郷(相馬市)から進軍してきた総大将が合流します。

ところで、この伝統を受け継ぐ相馬氏とは、どのような人たちなのでしょうか。またまたウィキペディアから引用。

相馬氏は、下総国、陸奥国(後の磐城国)を領した一族である。桓武平氏良文流千葉氏の支流。

初代の相馬師常は鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男である。師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の鎌ケ谷市、柏市、流山市、我孫子市、野田市の一帯)を相続されたことに始まる。
伝承によると師常は平将門の子孫である篠田師国の養子で、将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする。しかし、将門が本拠としていたのは、もっと北の豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかない。相馬氏による相馬郡支配の正当化を図るためのこじつけとする見方もある。

奥州の相馬氏は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州に領地を受けた後、千葉一族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まるとやや衰退し、室町時代後期に標葉氏を滅ぼしたものの、それでもなお戦国時代初期には、行方郡、標葉郡、宇多郡の三郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。しかし、武勇に秀でた当主が続き、更に独立心が旺盛で、奥州の大名・伊達氏、更に関東の大名・佐竹氏に対しても一歩も退かず、伊達氏とは30回以上にわたって抗争を続け、たびたび苦杯を舐めさせている。

やがて伊達政宗が現われ南奥州の諸大名が政宗の軍門に悉く降った時も、相馬氏は敗戦したとはいえ独立を維持し伊達氏と戦う意地を見せた。そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し豊臣方について本領を安堵された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては中立。豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣 の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていたため西軍寄りとみなされ、戦後徳川氏により一旦改易されたが訴訟を起こしてこれを凌ぎきり、再び本領安堵にこぎつけて近世大名として生き抜くことに成功した。
その後も秋田に転封された佐竹氏とは養子を送りあうなどして補完関係を築いた。奥州相馬氏は福島県相馬地方を明治時代にいたるまで実に700年以上もの長い間統治したため、相良氏、島津氏とともに世界史上にも珍しい領主として知られる。
すごいでしょう、同じ地域を700年以上統治しているんです。

この北郷本陣では、総大将の軍勢の動向をチェックすべく、早馬が何度も送られ、状況が報告されます。
表通りから副大将の本陣前まで、騎馬が疾走する姿を何度も見ることが出来る場所です。(ピンぼけ御免)

状況の報告や、上司からの命令(下知?)は全て古式さながら。
三度目の早馬を送ったあとに、宇多勢の到着が報告されます。

またまたカッコイイ騎馬武者です。

続々とやって来ます。まさに、『世界一の馬の祭典』。

兜をかぶっていない人は、どういう御役目なんでしょうね。

昔は実際に相馬市から進軍してきたのでしょうが、今は現代的な方法でバイパスはしているようです。

総大将もご到着。

相馬家当主の名代、現相馬市長です。
記録によれば、この日の相馬市の最高気温は34度台。

暑い中、本当にご苦労様なんですが、武者たちには、それ以上の喜びがあるのかも知れません。

纜を従者に握られた子供たちも多数。

彼らも10年後には立派な騎馬武者に成長することでしょう。

沿道の皆さんはそれを見続けていくんですね。

コミュニティが見守って、子供たちを導いていく、素晴らしい伝統です。

伝統とともに、そこにあり続ける、階級社会のようなものも教わるのかも知れません。
体育会系体験。

どう頑張っても、どんなに野馬追が大好きでも、一生騎馬には乗れない子もいるかもしれない。
それも人生です。
騎馬武者たちが駆け抜ける道、マンホールにはカバーがかけられています。

蹄鉄が乗ると滑るんですね。
ところで、騎馬武者には、女性もいるのですが、休憩時間の風景。

歴史と現実の不思議な交差。
騎馬武者の伝統を受け継ぐ娘さんは、少なくとも髪は染められないということですね。
オジさんカメラマンたちのレンズが交錯しました。

相馬野馬追の行事予定表によれば、総大将お出迎えという儀式になります。

本陣を張った北郷の副大将のもとに、宇多郷(相馬市)から進軍してきた総大将が合流します。

ところで、この伝統を受け継ぐ相馬氏とは、どのような人たちなのでしょうか。またまたウィキペディアから引用。

相馬氏は、下総国、陸奥国(後の磐城国)を領した一族である。桓武平氏良文流千葉氏の支流。

初代の相馬師常は鎌倉時代初期の武将千葉常胤の次男である。師常が父常胤より相馬郡相馬御厨(現在の鎌ケ谷市、柏市、流山市、我孫子市、野田市の一帯)を相続されたことに始まる。
伝承によると師常は平将門の子孫である篠田師国の養子で、将門に縁の深い相馬御厨を継承させたとする。しかし、将門が本拠としていたのは、もっと北の豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかない。相馬氏による相馬郡支配の正当化を図るためのこじつけとする見方もある。

奥州の相馬氏は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州に領地を受けた後、千葉一族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まるとやや衰退し、室町時代後期に標葉氏を滅ぼしたものの、それでもなお戦国時代初期には、行方郡、標葉郡、宇多郡の三郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。しかし、武勇に秀でた当主が続き、更に独立心が旺盛で、奥州の大名・伊達氏、更に関東の大名・佐竹氏に対しても一歩も退かず、伊達氏とは30回以上にわたって抗争を続け、たびたび苦杯を舐めさせている。

やがて伊達政宗が現われ南奥州の諸大名が政宗の軍門に悉く降った時も、相馬氏は敗戦したとはいえ独立を維持し伊達氏と戦う意地を見せた。そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し豊臣方について本領を安堵された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては中立。豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣 の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていたため西軍寄りとみなされ、戦後徳川氏により一旦改易されたが訴訟を起こしてこれを凌ぎきり、再び本領安堵にこぎつけて近世大名として生き抜くことに成功した。
その後も秋田に転封された佐竹氏とは養子を送りあうなどして補完関係を築いた。奥州相馬氏は福島県相馬地方を明治時代にいたるまで実に700年以上もの長い間統治したため、相良氏、島津氏とともに世界史上にも珍しい領主として知られる。
すごいでしょう、同じ地域を700年以上統治しているんです。

この北郷本陣では、総大将の軍勢の動向をチェックすべく、早馬が何度も送られ、状況が報告されます。
表通りから副大将の本陣前まで、騎馬が疾走する姿を何度も見ることが出来る場所です。(ピンぼけ御免)

状況の報告や、上司からの命令(下知?)は全て古式さながら。
三度目の早馬を送ったあとに、宇多勢の到着が報告されます。

またまたカッコイイ騎馬武者です。

続々とやって来ます。まさに、『世界一の馬の祭典』。

兜をかぶっていない人は、どういう御役目なんでしょうね。

昔は実際に相馬市から進軍してきたのでしょうが、今は現代的な方法でバイパスはしているようです。

総大将もご到着。

相馬家当主の名代、現相馬市長です。
記録によれば、この日の相馬市の最高気温は34度台。

暑い中、本当にご苦労様なんですが、武者たちには、それ以上の喜びがあるのかも知れません。

纜を従者に握られた子供たちも多数。

彼らも10年後には立派な騎馬武者に成長することでしょう。

沿道の皆さんはそれを見続けていくんですね。

コミュニティが見守って、子供たちを導いていく、素晴らしい伝統です。

伝統とともに、そこにあり続ける、階級社会のようなものも教わるのかも知れません。
体育会系体験。

どう頑張っても、どんなに野馬追が大好きでも、一生騎馬には乗れない子もいるかもしれない。
それも人生です。
騎馬武者たちが駆け抜ける道、マンホールにはカバーがかけられています。

蹄鉄が乗ると滑るんですね。
ところで、騎馬武者には、女性もいるのですが、休憩時間の風景。

歴史と現実の不思議な交差。
騎馬武者の伝統を受け継ぐ娘さんは、少なくとも髪は染められないということですね。
オジさんカメラマンたちのレンズが交錯しました。
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