Category: 街角探検
蔵のある街並み
盛岡に泊まって、花巻の温泉に入り、北上でラーメンを食べたあとにやってきたのは、奥州市江刺区。
政令指定都市でもないのに、区制が敷かれているのって、どういう基準によるものなんでしょうね。
どうも市町村の合併の特例に関する法律ってので決められているようなんですが、難しいので飛ばします。
こちらは以前から気になっていた、江刺の明治記念館。

明治7年に岩手県内初の病院として建設された明治記念館は、戦後のラジオドラマ菊田一夫原作の「鐘の鳴る丘」のモデルとなった建物なんだそうです。

確かに鐘がぶら下がっています。
なんで病院をこんな形にしたのかは謎。
初めて建てられた病院だったから、目立つものにしたかったのでしょうか。

入館無料。

急な階段を登り、4階建ての3階まで上がれます。

病人がこんなところを登り降り出来るか、と思わされた急な階段です。
横を流れるのは人首川。不気味な名前。

桜の季節に訪れるのがよさそうでした。
後ろ側。

人首川(ひとかべがわ)について、某HPからの無断引用です。
日本紀略によると、延暦二十一年(802)八月十三日、蝦夷の総帥アテルイ(阿弖利為)は、副将モレ(母礼)と共に、河内国杜山(あるいは植山、椙山)において、坂上田村麻呂によって斬られた。しかし、その後も、蝦夷たちのゲリラ戦による抵抗は、いつまでも、いつまでも、続いた。
人首丸(ひとかべまる)はアテルイの子である。伝説は大武丸(おおたけまる)の子としているが、大武丸とは、伝説化したアテルイの名の一つであるから、アテルイの子と見て間違いない。伝えられるところによると、彼は年の頃十五・六才の美少年であった。江刺市米里の大森山に立て籠もって頑強に抵抗したが、大同元年(806)、遂に討ち取られたとされる。今も、大森山の西に「鬼っ子の墓」があり、彼が潜んだ洞窟には観音堂が立てられていた(今は麓の玉里に移されて大森観音と呼ばれている)。
恐らく、少年は、田村麻呂の言葉を信じて、彼に連れられて都へ行った父アテルイが、再び帰って来る日を待ち続けていたことであろう。しかし、幾ら待っても待っても、父は帰って来なかった。それに代わって、風の便りに伝えられて来たものは、父が河内で斬殺されたと云う悲報であった。少年は号泣し憤激した。そして、思いを共にする者たちと、駐屯している朝廷軍の宿営に夜襲をかけた。手に手に松明を振りかざしながら、怒濤のような鬨の声を上げながら、---、彼らはみんな一様に大粒の涙を流し続けていた。男たちだけではなかった。女たちもいた。少年たちもいた。
しかし、やがて、朝廷軍の兵たちに反撃され、累々とした屍を残したまま逃げ走らねばならなかった。彼らは東の山へ逃げ込む。伝承によると、北上川の支流伊手川を上り、田原の鬼渕に潜む。しかし、朝廷軍の兵たちは執拗に彼らを追う。彼らは更に川上の藤里の愛宕山の洞窟に身を潜ませては、ゲリラ戦を挑んで抵抗する。しかし、じりじりと、山峡を川上へ川上へと退かねばならなかった。遂に、山を越えて北側の人首川の上流に移り、人首(ひとかべ)の村落(現在は米里と改名している)から、さらに東の山に退き、種山高原に至る。
彼らは物見山(種山)の北西の大森山に入り、岩窟の中に立て籠もった。総勢わずかに二十人足らず。昼は洞窟に身を潜め、夜になると、数人の隊で険阻な山道を通って、朝廷軍を襲った。出撃するたびに、一人二人と討ち取られ、帰ってくるたびに人数が減ってくる。遂に、大同元年(806)、人首丸は、僅かに残った3人の手勢と共に、物見山に陣する朝廷軍に、最後の決死の斬り込みをする。そして、人首丸もその首を討ち取られる。その抵抗は四年に及んだのである。
それから今日まで、美少年人首丸のことは、地元の人たちの心の中に伝え続けられ、消えることはなかった。
この伝説については、全く知りませんでした。
この後は蔵めぐり。

明治記念館から人首川を挟んで反対側、

村田の蔵と似た雰囲気ですね。

蔵町モールという一角なのでした。

蔵造り風の建物。

ステンドグラス好きな私は、この街灯が気に入りました。

歩行者専用道路の両側に、統一がとれた意匠の建物が並んでいます。

雑貨屋やガラス館、喫茶店等など。

資料をもらってくるのを忘れたので、泥縄で調べて書いてますが、どうも街の中心部の空洞化対策として、点在して残されていた蔵を活用し、新たな建物のデザインに制限を加えて、造られた街並みなのでした。

屋台村はちょっと無理があるかな。

こちらも新しい建物でしょうか。一番奥は本物?

こちらは酒屋さん。

古い土蔵と町家ですね。

土蔵の中が展示館になってました。

明治大正昭和の品々。

こちらは喫茶店。江刺の蔵人ですね。

公園風に美しく整備されたモール。

だけど何かが違う。

蔵を活用した町おこしの、ひとつの形であるのは間違いないけど、そこに暮らしてきた人々の生活感に欠けるように感じました。。

雨模様であまり詳しく観察できなかったのですが、もう一度ツーリングの途中に立ち寄ってみようと思います。
蔵町のHPはこちら。
東北道を走って、仙台へ戻りました。
政令指定都市でもないのに、区制が敷かれているのって、どういう基準によるものなんでしょうね。
どうも市町村の合併の特例に関する法律ってので決められているようなんですが、難しいので飛ばします。
こちらは以前から気になっていた、江刺の明治記念館。

明治7年に岩手県内初の病院として建設された明治記念館は、戦後のラジオドラマ菊田一夫原作の「鐘の鳴る丘」のモデルとなった建物なんだそうです。

確かに鐘がぶら下がっています。
なんで病院をこんな形にしたのかは謎。
初めて建てられた病院だったから、目立つものにしたかったのでしょうか。

入館無料。

急な階段を登り、4階建ての3階まで上がれます。

病人がこんなところを登り降り出来るか、と思わされた急な階段です。
横を流れるのは人首川。不気味な名前。

桜の季節に訪れるのがよさそうでした。
後ろ側。

人首川(ひとかべがわ)について、某HPからの無断引用です。
日本紀略によると、延暦二十一年(802)八月十三日、蝦夷の総帥アテルイ(阿弖利為)は、副将モレ(母礼)と共に、河内国杜山(あるいは植山、椙山)において、坂上田村麻呂によって斬られた。しかし、その後も、蝦夷たちのゲリラ戦による抵抗は、いつまでも、いつまでも、続いた。
人首丸(ひとかべまる)はアテルイの子である。伝説は大武丸(おおたけまる)の子としているが、大武丸とは、伝説化したアテルイの名の一つであるから、アテルイの子と見て間違いない。伝えられるところによると、彼は年の頃十五・六才の美少年であった。江刺市米里の大森山に立て籠もって頑強に抵抗したが、大同元年(806)、遂に討ち取られたとされる。今も、大森山の西に「鬼っ子の墓」があり、彼が潜んだ洞窟には観音堂が立てられていた(今は麓の玉里に移されて大森観音と呼ばれている)。
恐らく、少年は、田村麻呂の言葉を信じて、彼に連れられて都へ行った父アテルイが、再び帰って来る日を待ち続けていたことであろう。しかし、幾ら待っても待っても、父は帰って来なかった。それに代わって、風の便りに伝えられて来たものは、父が河内で斬殺されたと云う悲報であった。少年は号泣し憤激した。そして、思いを共にする者たちと、駐屯している朝廷軍の宿営に夜襲をかけた。手に手に松明を振りかざしながら、怒濤のような鬨の声を上げながら、---、彼らはみんな一様に大粒の涙を流し続けていた。男たちだけではなかった。女たちもいた。少年たちもいた。
しかし、やがて、朝廷軍の兵たちに反撃され、累々とした屍を残したまま逃げ走らねばならなかった。彼らは東の山へ逃げ込む。伝承によると、北上川の支流伊手川を上り、田原の鬼渕に潜む。しかし、朝廷軍の兵たちは執拗に彼らを追う。彼らは更に川上の藤里の愛宕山の洞窟に身を潜ませては、ゲリラ戦を挑んで抵抗する。しかし、じりじりと、山峡を川上へ川上へと退かねばならなかった。遂に、山を越えて北側の人首川の上流に移り、人首(ひとかべ)の村落(現在は米里と改名している)から、さらに東の山に退き、種山高原に至る。
彼らは物見山(種山)の北西の大森山に入り、岩窟の中に立て籠もった。総勢わずかに二十人足らず。昼は洞窟に身を潜め、夜になると、数人の隊で険阻な山道を通って、朝廷軍を襲った。出撃するたびに、一人二人と討ち取られ、帰ってくるたびに人数が減ってくる。遂に、大同元年(806)、人首丸は、僅かに残った3人の手勢と共に、物見山に陣する朝廷軍に、最後の決死の斬り込みをする。そして、人首丸もその首を討ち取られる。その抵抗は四年に及んだのである。
それから今日まで、美少年人首丸のことは、地元の人たちの心の中に伝え続けられ、消えることはなかった。
この伝説については、全く知りませんでした。
この後は蔵めぐり。

明治記念館から人首川を挟んで反対側、

村田の蔵と似た雰囲気ですね。

蔵町モールという一角なのでした。

蔵造り風の建物。

ステンドグラス好きな私は、この街灯が気に入りました。

歩行者専用道路の両側に、統一がとれた意匠の建物が並んでいます。

雑貨屋やガラス館、喫茶店等など。

資料をもらってくるのを忘れたので、泥縄で調べて書いてますが、どうも街の中心部の空洞化対策として、点在して残されていた蔵を活用し、新たな建物のデザインに制限を加えて、造られた街並みなのでした。

屋台村はちょっと無理があるかな。

こちらも新しい建物でしょうか。一番奥は本物?

こちらは酒屋さん。

古い土蔵と町家ですね。

土蔵の中が展示館になってました。

明治大正昭和の品々。

こちらは喫茶店。江刺の蔵人ですね。

公園風に美しく整備されたモール。

だけど何かが違う。

蔵を活用した町おこしの、ひとつの形であるのは間違いないけど、そこに暮らしてきた人々の生活感に欠けるように感じました。。

雨模様であまり詳しく観察できなかったのですが、もう一度ツーリングの途中に立ち寄ってみようと思います。
蔵町のHPはこちら。
東北道を走って、仙台へ戻りました。
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