Category: 博物芸術
Goin' Down The Fossa Magna
このブログの閲覧数は比較的安定しているので、ほぼ毎日、ページを開いて頂いている方が、100人近くいると理解しています。ありがとうございます。
そのうち何割かは、コメントを頂いた方だったり、顔見知りであることは想像がつくのですが、それ以外の方はどんな方なのでしょうか?
退屈なブログかと思いますが、これからもよろしくお願いします。
趣味の一つが旅行、そしてもう一つがカメラなので、旅行に出かけて写真を撮り、その記憶をもう一度二度たどって、さらに現地で得られなかった情報をあとからも調べて、記事を書くとともに、その旅行を再び楽しむのが、私の余暇の過ごし方になっています。
お付き合いください。

上越市高田のホテルを出発し、最後にもう一度なるべく雁木が続くルートを抜けて、上越ICから再度北陸道へ。
激しい雨に霞む名立の風力発電所を横目に、西へ走ります。
糸魚川ICを出て、ここから国道148号を南下するのですが、まず立ち寄ったのが、フォッサマグナミュージアム。名前に惹かれました。

私の世代は、何と言っても「日本沈没」で教わったフォッサマグナ。

改めてここで学ぶことが出来ました。画像はミュージアムに数多く展示されている鉱物たちです。

例によってウィキペディアから引用。
フォッサマグナ (Fossa Magna) は、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目とされる地帯。中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる。語源はラテン語のFossa Magnaで、「大きな溝」を意味する。

本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断位置する。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線とされる。東縁については異説もある。

しばしば糸静線と同一視されるが、糸静線はフォッサマグナの西端であって、「フォッサマグナ=糸静線」とするのは誤りである。つまり、地図上においては、糸静線は「線」であるが、フォッサマグナは「面」である。端的に言えば、古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域である。

私もずっと糸魚川静岡構造線が、イコールフォッサマグナだと誤解していました。

フォッサマグナの西側を西南日本、東側を東北日本という。西南日本に当たる飛騨山脈は(地表は新しい火山噴出物で覆われているが)大部分が5億5,000万年前 - 6,500万年前の地層(中生代や古生代の地層 = 中・古生層)であるのに対し、フォッサマグナにあたる妙高連峰付近は大部分が2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物(新第三紀・第四紀の地層 = 新第三紀層・沖積層・洪積層)である。この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していることを示している。

そんなハインリッヒ・エドムント・ナウマン (Heinrich Edmund NAUMANN) がこの地質構造の異なるラインが糸魚川から静岡にまで至るのを発見したフォッサマグナにそって、旅が続きます。

雨さへ降っていな変えれば気持ち良さそうなツーリングルート、平行する高速道路はなく、JR大糸線の線路が時々見えました。

姫川渓谷沿いに走っているうちにいつの間にか峠を超え、長野県小谷村に入ります。おたりむら。変わった読み方です。
そして白馬村に入って昼飯。
このあと信州はずっとそうなんですが、やはり本場、蕎麦屋の密度が高いです。あとはおやきの看板。

BGMはJazz。

この日はやや涼しかったため、豚肉と茸が入った熱い汁で手打ち蕎麦をいただきました。

美味しいお蕎麦でした。

さらに南下すると青木湖、木崎湖を過ぎて大町市、そして安曇野です。
ここでTTのメータパネルにアラーム。

旅先で心配なので、川沿いに車を停めて、マニュアルを読みます。
ストップランプの球切れでした。一人だと確認が難しいのですが、ブレーキをちょこちょこ踏んで、後ろの車を観察すると、ひとつは点灯しているようです。
まあ、一個だけならとりあえず良いかなということで再出発。
一旦安曇野を通り過ぎ、松本に入りました。
信州に来たのは、記録によると1998年と2006年。98年は松本にも来ています。
しかしここに来るのは初めてでした。
開智小学校の奥に見える洋風建築。

旧開智学校です。
またまたウィキから。
開智学校は松本藩校崇教館の流れを汲み、1873年(明治6年)に第二大学区筑摩県管下 第一中学区 第一番小学 開智学校として開校した。当校内に中学水準に相当する課程として設置された英学課は、旧制松本中学・長野県松本深志高等学校の祖となった。

もとは廃仏毀釈で廃寺となった松本藩主戸田氏の菩提寺・全久院の跡地に開校し、女鳥羽川南岸にあったが、昭和期に使われなくなると信州大学付属病院跡地であった現在の場所に移築された。1965年(昭和40年)からは明治時代の教育資料を展示した博物館になっており、当時使われていた机(二人掛けで、天板が開く)や筆記用具(チョークと黒板消し)などが展示してある。

実に美しい。
旧開智学校校舎は明治時代の代表的な擬洋風建築である。木造2階建て、寄棟造、桟瓦葺きで、外壁は漆喰塗である。校舎は白を基調としており、中央に八角塔屋がある。その前方は1階を車寄、2階をバルコニーとし、竜、雲などの彫刻で飾る。バルコニー上の庇は唐破風形で、庇下は日本風の天使像2体が「開智學校」の校名を掲げるデザインとする。

この校舎は筑摩県権令・永山盛輝の主導で新築されたもので、1875年(明治8年)4月に着工、翌1876年(明治9年)4月に完成した。地元出身で東京で西洋建築を学んだ大工棟梁の立石清重が設計施工を担当した。

こんな油絵も。

せっかく車を停められたので、少しだけ歩いて、松本の国宝へ。

こちらも蓮池の向こうに黒板壁のお城でした。

何度来ても、どう見ても細身のお城。
他の天守閣や櫓と較べると、安定感に欠ける、不思議な雰囲気なんです。

安曇野の宿に向かいました。すこぉし山が見えてきたかな。
そのうち何割かは、コメントを頂いた方だったり、顔見知りであることは想像がつくのですが、それ以外の方はどんな方なのでしょうか?
退屈なブログかと思いますが、これからもよろしくお願いします。
趣味の一つが旅行、そしてもう一つがカメラなので、旅行に出かけて写真を撮り、その記憶をもう一度二度たどって、さらに現地で得られなかった情報をあとからも調べて、記事を書くとともに、その旅行を再び楽しむのが、私の余暇の過ごし方になっています。
お付き合いください。

上越市高田のホテルを出発し、最後にもう一度なるべく雁木が続くルートを抜けて、上越ICから再度北陸道へ。
激しい雨に霞む名立の風力発電所を横目に、西へ走ります。
糸魚川ICを出て、ここから国道148号を南下するのですが、まず立ち寄ったのが、フォッサマグナミュージアム。名前に惹かれました。

私の世代は、何と言っても「日本沈没」で教わったフォッサマグナ。

改めてここで学ぶことが出来ました。画像はミュージアムに数多く展示されている鉱物たちです。

例によってウィキペディアから引用。
フォッサマグナ (Fossa Magna) は、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目とされる地帯。中央地溝帯・大地溝帯とも呼ばれる。語源はラテン語のFossa Magnaで、「大きな溝」を意味する。

本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断位置する。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線とされる。東縁については異説もある。

しばしば糸静線と同一視されるが、糸静線はフォッサマグナの西端であって、「フォッサマグナ=糸静線」とするのは誤りである。つまり、地図上においては、糸静線は「線」であるが、フォッサマグナは「面」である。端的に言えば、古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域である。

私もずっと糸魚川静岡構造線が、イコールフォッサマグナだと誤解していました。

フォッサマグナの西側を西南日本、東側を東北日本という。西南日本に当たる飛騨山脈は(地表は新しい火山噴出物で覆われているが)大部分が5億5,000万年前 - 6,500万年前の地層(中生代や古生代の地層 = 中・古生層)であるのに対し、フォッサマグナにあたる妙高連峰付近は大部分が2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物(新第三紀・第四紀の地層 = 新第三紀層・沖積層・洪積層)である。この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していることを示している。

そんなハインリッヒ・エドムント・ナウマン (Heinrich Edmund NAUMANN) がこの地質構造の異なるラインが糸魚川から静岡にまで至るのを発見したフォッサマグナにそって、旅が続きます。

雨さへ降っていな変えれば気持ち良さそうなツーリングルート、平行する高速道路はなく、JR大糸線の線路が時々見えました。

姫川渓谷沿いに走っているうちにいつの間にか峠を超え、長野県小谷村に入ります。おたりむら。変わった読み方です。
そして白馬村に入って昼飯。
このあと信州はずっとそうなんですが、やはり本場、蕎麦屋の密度が高いです。あとはおやきの看板。

BGMはJazz。

この日はやや涼しかったため、豚肉と茸が入った熱い汁で手打ち蕎麦をいただきました。

美味しいお蕎麦でした。

さらに南下すると青木湖、木崎湖を過ぎて大町市、そして安曇野です。
ここでTTのメータパネルにアラーム。

旅先で心配なので、川沿いに車を停めて、マニュアルを読みます。
ストップランプの球切れでした。一人だと確認が難しいのですが、ブレーキをちょこちょこ踏んで、後ろの車を観察すると、ひとつは点灯しているようです。
まあ、一個だけならとりあえず良いかなということで再出発。
一旦安曇野を通り過ぎ、松本に入りました。
信州に来たのは、記録によると1998年と2006年。98年は松本にも来ています。
しかしここに来るのは初めてでした。
開智小学校の奥に見える洋風建築。

旧開智学校です。
またまたウィキから。
開智学校は松本藩校崇教館の流れを汲み、1873年(明治6年)に第二大学区筑摩県管下 第一中学区 第一番小学 開智学校として開校した。当校内に中学水準に相当する課程として設置された英学課は、旧制松本中学・長野県松本深志高等学校の祖となった。

もとは廃仏毀釈で廃寺となった松本藩主戸田氏の菩提寺・全久院の跡地に開校し、女鳥羽川南岸にあったが、昭和期に使われなくなると信州大学付属病院跡地であった現在の場所に移築された。1965年(昭和40年)からは明治時代の教育資料を展示した博物館になっており、当時使われていた机(二人掛けで、天板が開く)や筆記用具(チョークと黒板消し)などが展示してある。

実に美しい。
旧開智学校校舎は明治時代の代表的な擬洋風建築である。木造2階建て、寄棟造、桟瓦葺きで、外壁は漆喰塗である。校舎は白を基調としており、中央に八角塔屋がある。その前方は1階を車寄、2階をバルコニーとし、竜、雲などの彫刻で飾る。バルコニー上の庇は唐破風形で、庇下は日本風の天使像2体が「開智學校」の校名を掲げるデザインとする。

この校舎は筑摩県権令・永山盛輝の主導で新築されたもので、1875年(明治8年)4月に着工、翌1876年(明治9年)4月に完成した。地元出身で東京で西洋建築を学んだ大工棟梁の立石清重が設計施工を担当した。

こんな油絵も。

せっかく車を停められたので、少しだけ歩いて、松本の国宝へ。

こちらも蓮池の向こうに黒板壁のお城でした。

何度来ても、どう見ても細身のお城。
他の天守閣や櫓と較べると、安定感に欠ける、不思議な雰囲気なんです。

安曇野の宿に向かいました。すこぉし山が見えてきたかな。
