Category: 博物芸術
清洲会議とは無関係
ケースケ本田、イタリアデビュー果たしましたね。
3本はシュートしてたのではないでしょうか。
しかし2-0から2-4、そして3-4。野球みたいな得点展開でした。
新年二日目の朝食は再びDenny's。
前回の記事では書き忘れましたが、店に入るとスタッフが「ようこそデニーズへ!!」と唄うように声出しするのは昔と同じ。

今回も同じサラダモーニングに、おかわり自由のアメリカンコーヒーですが、パンだけ焼きたてに変更。

このサラダ、好きです。

部屋に戻り、荷物をまとめて、ローソンに宅配を頼みます。1000円で翌朝着。
手荷物はこれでカメラとガイドブックだけ。
勝鬨橋に別れを告げ、メトロ大江戸線で、清澄白河へ。
清澄白河で降りるのは、一昨年、東京都現代美術館に来て以来です。

清澄庭園。
ウィキから引用です。
この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。

1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。なお、1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。

1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。それを受けて1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園した。

中島を持つ広い池が中心にあり、ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置した「磯渡り」などがある。また、園内には岩崎家が全国から集めたという名石が無数に置かれている。また池には人に慣れた多数のカメがいて、餌をあげたりと楽しめる。

人が来ると、鴨と鯉が集まってきます。

都会のオアシスですが、この季節は寂しいもんです。

テントを張ってる人がいますね。

この日の目的地は此処。

国の重要文化財、清洲橋です。

清洲橋(きよすばし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあった大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。

そうなんです。
東日本大震災でも、復興は橋と港からでしたね。

女性的なデザインとありますが、なんのなんの。
こんなに鋲が必要だったのか、それともデザイン?

要所要所が、実にメカニックなんです。当たり前ですけど。

ディアゴスティーニで造りたくなるカタチかも(置き場所がないけど)。

もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。
2000年(平成12年)に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。
2007年(平成19年)6月18日に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)

東京タワーやスカイツリーもいつか、重文や国宝に指定されるのでしょうか。

美しい橋です。

いろんな方向から観てみましょう。

街灯もかっこいい。

底面。

もちろん周辺は美しく整備された遊歩道です。

近くに建つ、凱旋門型のビル。

リバーサイド読売だそうです。
凧揚げをしている子どもたちがいました。

何故かヘリコプターのオブジェが乗る時計。

ヘリ関連の会社が入るビルなのかも。

ちょうどヘリが飛んできました。

隅田川大橋から眺める、清洲橋。箱崎の近くですね。

ここから夜景を見ないとダメだな。

水上バスが沢山行き交っていました。
3本はシュートしてたのではないでしょうか。
しかし2-0から2-4、そして3-4。野球みたいな得点展開でした。
新年二日目の朝食は再びDenny's。
前回の記事では書き忘れましたが、店に入るとスタッフが「ようこそデニーズへ!!」と唄うように声出しするのは昔と同じ。

今回も同じサラダモーニングに、おかわり自由のアメリカンコーヒーですが、パンだけ焼きたてに変更。

このサラダ、好きです。

部屋に戻り、荷物をまとめて、ローソンに宅配を頼みます。1000円で翌朝着。
手荷物はこれでカメラとガイドブックだけ。
勝鬨橋に別れを告げ、メトロ大江戸線で、清澄白河へ。
清澄白河で降りるのは、一昨年、東京都現代美術館に来て以来です。

清澄庭園。
ウィキから引用です。
この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。

1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。なお、1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。

1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。それを受けて1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園した。

中島を持つ広い池が中心にあり、ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置した「磯渡り」などがある。また、園内には岩崎家が全国から集めたという名石が無数に置かれている。また池には人に慣れた多数のカメがいて、餌をあげたりと楽しめる。

人が来ると、鴨と鯉が集まってきます。

都会のオアシスですが、この季節は寂しいもんです。

テントを張ってる人がいますね。

この日の目的地は此処。

国の重要文化財、清洲橋です。

清洲橋(きよすばし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあった大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。

そうなんです。
東日本大震災でも、復興は橋と港からでしたね。

女性的なデザインとありますが、なんのなんの。
こんなに鋲が必要だったのか、それともデザイン?

要所要所が、実にメカニックなんです。当たり前ですけど。

ディアゴスティーニで造りたくなるカタチかも(置き場所がないけど)。

もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。
2000年(平成12年)に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。
2007年(平成19年)6月18日に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)

東京タワーやスカイツリーもいつか、重文や国宝に指定されるのでしょうか。

美しい橋です。

いろんな方向から観てみましょう。

街灯もかっこいい。

底面。

もちろん周辺は美しく整備された遊歩道です。

近くに建つ、凱旋門型のビル。

リバーサイド読売だそうです。
凧揚げをしている子どもたちがいました。

何故かヘリコプターのオブジェが乗る時計。

ヘリ関連の会社が入るビルなのかも。

ちょうどヘリが飛んできました。

隅田川大橋から眺める、清洲橋。箱崎の近くですね。

ここから夜景を見ないとダメだな。

水上バスが沢山行き交っていました。