Category: 昭和の香り
消える............昭和の風情。
今朝、先ほど、6:42頃。
パソコンに向かう眼をちょっと外に向けたら、なんと白鳥のペアが、仲の瀬橋方面からわが家の真上をすれすれに飛んでいきました。いつもはトンビとカラスしか飛んでいないのに。
もう冬です。
天気が滅っ茶よかった土曜日。

嬉しくなってTTで北へ。
泉PAのETC専用入り口から、長者原SAのETC専用出口まで東北道。この辺りの紅葉はまだまだ。

上下線の長者原SAをぐるりと半時計方向に回って、大崎北部広域農道。
県道17号線に合流して、馬館で左折。道なりに走ってたら、菅生ダムの近くでダートに。

ジムニーだったら突っ込むけど、この日は退散。
上山里まで戻って一迫ゆり園方面へ左折北上。元くりでんの旧軌道跡をまたいで、県道178を左折。
一迫の綿屋の蔵元、金の井酒造の前を通って、花山方面へは向かわず、国道457を北上。

細倉に入ります。

8日の記事に書いた様に、近く解体が決まった、佐野住宅です。

ウイキから引用。
細倉鉱山(ほそくらこうざん)は宮城県栗原市にあった、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。最盛期は岐阜県の神岡鉱山に次ぐ規模の、日本を代表する鉛、亜鉛の鉱山であった。

細倉鉱山は宮城県西北部の奥羽山脈の山麓にあった、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。鉱山は北上川水系迫川(はさまがわ)支流に当たる二迫川(にのはさまがわ)の更に支流となる鉛川沿いの谷を中心として、東西約5キロ、南北約3キロの範囲に広がっていた。

細倉鉱山は9世紀に発見されたとの伝承があるが根拠がはっきりせず、文献からは16世紀の後半に発見、採掘が開始されたと考えられている。当初は銀山であったが、17世紀後半から鉛の産出が始まり、停滞した時期もあったが、やがて仙台藩一の鉛の鉱山となった。江戸時代末には細倉鉱山で産出された鉛から、細倉当百という鉱山で使用するための地方貨幣も発行された。

明治以降は細倉鉱山が有望な鉱山であると考えた人々によって鉱山経営が行われるが、水害や火災、そして鉛や銀の市況の低迷などの影響で思うように発展しなかった。1934年(昭和9年)に三菱鉱業が細倉鉱山の経営権を獲得して本格的開発に乗り出し、戦中戦後の混乱はあったが、日本を代表する鉛、亜鉛の鉱山へと成長した。

1970年代以降、円高による競争力の低下やオイルショックなどによる不況の影響で細倉鉱山の経営は困難となり、1987年(昭和62年)2月に閉山となった。その後は鉛鉱石の精錬事業を継続していたが、1994年(平成6年)から自動車の廃バッテリーから鉛を回収する事業を開始し、1996年(平成8年)には鉛鉱石の精錬事業から撤退し、精錬関連では自動車の廃バッテリーからの鉛回収事業に専念することになった。

細倉鉱山は明治以降の日本の近代化に、鉛や亜鉛などの非鉄金属の生産を通して貢献し、また鉱山関連の遺構が比較的良好に遺されていることが評価され、2007年(平成19年)に経済産業省が認定する近代化産業遺産群33に、「東北鉱山」の一つとして認定された。

細倉鉱山の鉱床は脈状に鉱石が分布している鉱脈鉱床である。鉱脈は約2000万年前の新第三紀中新世初期に形成された、凝灰岩・安山岩・流紋岩からなるグリーンタフ層の割れ目に発達している。鉱床の形成年代はグリーンタフ層が形成された後の、500-1000万年前の新第三紀であると考えられる。

細倉鉱山では鉱床地帯を中心にドーム状の構造が観察され、鉱床は東西約5キロ、南北約3キロ、地表に露頭となっている部分から約500メートルの深さまで分布している。鉱脈は全部で160本以上あり、鉱床が延びている方向は、北西ー南東方向、北東ー南西方向、東ー西方向、北ー南方向の4つの方向に分類されるが、多くの鉱床は北東ー南西方向へ延びており、また東ー西に延びる鉱床は細倉鉱山東部に分布しており、他のタイプよりも鉱脈の規模と鉱石の品位が著しく優れている。

160本以上の鉱床が4つに大別される方向に延びているため、全体として見ると細倉鉱山の鉱床は網の目が複雑に絡み合ったような構造をしている。主要な鉱脈は10本あって、鉱脈の幅は最大部分では12メートルから15メートルに及ぶが、平均すると1.3メートルである。最大の鉱脈は総延長2200メートルに達するが、平均の長さは400メートルである。鉱脈の主要鉱物は方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱であり、銀、銅、ビスマス、カドミウムなども産出した[5]。

細倉鉱山の発見は9世紀、大同年間ないし貞観年間に遡るとの言い伝えがあるが、文献からは確認出来ず根拠に欠ける。1778年(安永7年)に栗原郡二之迫鶯沢村から仙台藩に提出された「鶯沢村風土記書上写」という文章の中に、16世紀後半の天正年間に細倉鉱山の採掘が始まったことが記されており、また地元の旧家に残る古文書からも天正年間から慶長年間頃に鉱山開発が始まったと考えられる記述が見られ、16世紀後半の天正年間に細倉鉱山の採掘が開始されたと考えられている。

1591年(天正19年)、伊達政宗が米沢から岩出山に転封となった。北上山地付近は古くから金の産地として名高く、新領地に入った伊達政宗は金山開発など鉱山開発に力を注ぐことになる。そのような中、細倉鉱山は当初は銀山として採掘が始まったと考えられている。

(大幅に中略)細倉鉱山があった鶯沢町は、鉱山の発展とともに発展し、最も人口が多かった1957年(昭和32年)には約13500人の人口があったが、鉱山の衰退と閉山に伴い人口は大幅に減少し、2005年(平成17年)の栗原市誕生直前には約3000人にまで落ち込んだ。

また、細倉鉱山で働いていた人々が居住していた「佐野住宅」は保存状態が良好であり、2007年に日本アカデミー賞を受賞した映画、「東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜」のロケ地となった。

何度か足を運びましたが、ほとんど見物客を見たこともないし、お前が何とかしろと言われても、こんなブログを書くことしか出来ません。

残念です。

昔の歪んだ窓ガラスなんて貴重だとは思いながらも、良いから好きなモノ持ってけと言われたとしても、欲しいのはこの味噌の看板くらいでしょうか。

宮城県周辺にお住まいの方は、ぜひ一度足を運んで、記憶に焼き付けてください。
パソコンに向かう眼をちょっと外に向けたら、なんと白鳥のペアが、仲の瀬橋方面からわが家の真上をすれすれに飛んでいきました。いつもはトンビとカラスしか飛んでいないのに。
もう冬です。
天気が滅っ茶よかった土曜日。

嬉しくなってTTで北へ。
泉PAのETC専用入り口から、長者原SAのETC専用出口まで東北道。この辺りの紅葉はまだまだ。

上下線の長者原SAをぐるりと半時計方向に回って、大崎北部広域農道。
県道17号線に合流して、馬館で左折。道なりに走ってたら、菅生ダムの近くでダートに。

ジムニーだったら突っ込むけど、この日は退散。
上山里まで戻って一迫ゆり園方面へ左折北上。元くりでんの旧軌道跡をまたいで、県道178を左折。
一迫の綿屋の蔵元、金の井酒造の前を通って、花山方面へは向かわず、国道457を北上。

細倉に入ります。

8日の記事に書いた様に、近く解体が決まった、佐野住宅です。

ウイキから引用。
細倉鉱山(ほそくらこうざん)は宮城県栗原市にあった、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。最盛期は岐阜県の神岡鉱山に次ぐ規模の、日本を代表する鉛、亜鉛の鉱山であった。

細倉鉱山は宮城県西北部の奥羽山脈の山麓にあった、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。鉱山は北上川水系迫川(はさまがわ)支流に当たる二迫川(にのはさまがわ)の更に支流となる鉛川沿いの谷を中心として、東西約5キロ、南北約3キロの範囲に広がっていた。

細倉鉱山は9世紀に発見されたとの伝承があるが根拠がはっきりせず、文献からは16世紀の後半に発見、採掘が開始されたと考えられている。当初は銀山であったが、17世紀後半から鉛の産出が始まり、停滞した時期もあったが、やがて仙台藩一の鉛の鉱山となった。江戸時代末には細倉鉱山で産出された鉛から、細倉当百という鉱山で使用するための地方貨幣も発行された。

明治以降は細倉鉱山が有望な鉱山であると考えた人々によって鉱山経営が行われるが、水害や火災、そして鉛や銀の市況の低迷などの影響で思うように発展しなかった。1934年(昭和9年)に三菱鉱業が細倉鉱山の経営権を獲得して本格的開発に乗り出し、戦中戦後の混乱はあったが、日本を代表する鉛、亜鉛の鉱山へと成長した。

1970年代以降、円高による競争力の低下やオイルショックなどによる不況の影響で細倉鉱山の経営は困難となり、1987年(昭和62年)2月に閉山となった。その後は鉛鉱石の精錬事業を継続していたが、1994年(平成6年)から自動車の廃バッテリーから鉛を回収する事業を開始し、1996年(平成8年)には鉛鉱石の精錬事業から撤退し、精錬関連では自動車の廃バッテリーからの鉛回収事業に専念することになった。

細倉鉱山は明治以降の日本の近代化に、鉛や亜鉛などの非鉄金属の生産を通して貢献し、また鉱山関連の遺構が比較的良好に遺されていることが評価され、2007年(平成19年)に経済産業省が認定する近代化産業遺産群33に、「東北鉱山」の一つとして認定された。

細倉鉱山の鉱床は脈状に鉱石が分布している鉱脈鉱床である。鉱脈は約2000万年前の新第三紀中新世初期に形成された、凝灰岩・安山岩・流紋岩からなるグリーンタフ層の割れ目に発達している。鉱床の形成年代はグリーンタフ層が形成された後の、500-1000万年前の新第三紀であると考えられる。

細倉鉱山では鉱床地帯を中心にドーム状の構造が観察され、鉱床は東西約5キロ、南北約3キロ、地表に露頭となっている部分から約500メートルの深さまで分布している。鉱脈は全部で160本以上あり、鉱床が延びている方向は、北西ー南東方向、北東ー南西方向、東ー西方向、北ー南方向の4つの方向に分類されるが、多くの鉱床は北東ー南西方向へ延びており、また東ー西に延びる鉱床は細倉鉱山東部に分布しており、他のタイプよりも鉱脈の規模と鉱石の品位が著しく優れている。

160本以上の鉱床が4つに大別される方向に延びているため、全体として見ると細倉鉱山の鉱床は網の目が複雑に絡み合ったような構造をしている。主要な鉱脈は10本あって、鉱脈の幅は最大部分では12メートルから15メートルに及ぶが、平均すると1.3メートルである。最大の鉱脈は総延長2200メートルに達するが、平均の長さは400メートルである。鉱脈の主要鉱物は方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄鉄鉱であり、銀、銅、ビスマス、カドミウムなども産出した[5]。

細倉鉱山の発見は9世紀、大同年間ないし貞観年間に遡るとの言い伝えがあるが、文献からは確認出来ず根拠に欠ける。1778年(安永7年)に栗原郡二之迫鶯沢村から仙台藩に提出された「鶯沢村風土記書上写」という文章の中に、16世紀後半の天正年間に細倉鉱山の採掘が始まったことが記されており、また地元の旧家に残る古文書からも天正年間から慶長年間頃に鉱山開発が始まったと考えられる記述が見られ、16世紀後半の天正年間に細倉鉱山の採掘が開始されたと考えられている。

1591年(天正19年)、伊達政宗が米沢から岩出山に転封となった。北上山地付近は古くから金の産地として名高く、新領地に入った伊達政宗は金山開発など鉱山開発に力を注ぐことになる。そのような中、細倉鉱山は当初は銀山として採掘が始まったと考えられている。

(大幅に中略)細倉鉱山があった鶯沢町は、鉱山の発展とともに発展し、最も人口が多かった1957年(昭和32年)には約13500人の人口があったが、鉱山の衰退と閉山に伴い人口は大幅に減少し、2005年(平成17年)の栗原市誕生直前には約3000人にまで落ち込んだ。

また、細倉鉱山で働いていた人々が居住していた「佐野住宅」は保存状態が良好であり、2007年に日本アカデミー賞を受賞した映画、「東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜」のロケ地となった。

何度か足を運びましたが、ほとんど見物客を見たこともないし、お前が何とかしろと言われても、こんなブログを書くことしか出来ません。

残念です。

昔の歪んだ窓ガラスなんて貴重だとは思いながらも、良いから好きなモノ持ってけと言われたとしても、欲しいのはこの味噌の看板くらいでしょうか。

宮城県周辺にお住まいの方は、ぜひ一度足を運んで、記憶に焼き付けてください。
