Category: 街角探検
ここまでだって
さて、日曜日。新緑のトンネルを爆走したあと、癒しの空間に到着しました。10:20。
後ろの建物は、白糸まちなみ交流館。

トイレを借りて、地図をもらおうと思ったら親切なお母さんが、目印と見所を丁寧に教えてくれました。
なんとこのお母さん。震災当日は宮城野区で、街並み保存か何かのの講演中、ここまで戻ってくるのに三日かかったそうです。

此処は胆沢郡金ケ崎町。岩手県では市町村合併で、地方自治体の広域化が進んでおり、南の方でも、一関市や奥州市、北上市はずいぶん広い市域になっていますが、この金ケ崎は平泉と共に、孤立して頑張っている町の一つです。
北上市と奥州市に挟まれた町。ちなみに金ヶ崎ではなく金ケ崎。大きいケですね。
街並みは生垣に特徴があります。

ちょっと沖縄っぽいかも。
伊達藩領の北の端にあたります。だから前述のお母さんも、仙台から来たと聞いて大喜びしてくれたわけ。
ここまでが陸前だったわけで、世が世ならば、ここも宮城県だったかも。
金ケ崎城とか、金ケ崎要害と呼ばれる町内、自治会掲示板は町内ではなく、城内。かっこいいですね。

北の強藩、南部藩との国境、重要なお城があったことは言うまでもありませんね。
今も自然の水系を利用したと思われる、お堀には水が流れています。

岩手県の街並みを紹介するサイトから引用。
金ケ崎町の平安時代は蝦夷と中央政権の勢力が入り混じる地域の1つで、蝦夷の俘囚の長であった安倍氏の軍事的拠点の鳥海の柵が築かれました。鳥海の柵は当時、難攻不落と呼ばれており「前九年合戦」では両軍の主力がぶつかり合う激戦地で、「陸奥話記」によると安倍頼時は鳥海の柵で流れ矢にあたり没したとされています。
近世に入ると伊達領に組み入れられ、南部藩と接する最北端に位置することから、北方警護と軍事的拠点とする為、要害屋敷(金ケ崎城)が築かれます。伊達領は領地が広大だった事から領内の重要拠点に21箇所の要害を設けましたが金ケ崎町もその1つとなりました。北上川と宿内川を掘りに見立て、そこに流れ込む支流を内堀化した城割りとなっています。
大町定頼によって造られた城下町、片平丁という町名も残っています。

金ケ崎城は平城ですがある意味天然の要害とも言え、古代では坂之上田村麻呂や白糸姫、源義家などの伝説が残っています。
要害屋敷(金ケ崎城)には伊達家家臣の大町氏が3000石で入り、城の周りに家臣団を配置、奥州街道沿いに商人町を形成、さらに外側の南北両端に足軽町を造り町の出入りを固めるなどの城下町の町割りを行いました。現在の金ケ崎町ではこれらの町割りだけでなく敷地割りもほぼ踏襲している珍しいケースで、要害屋敷(金ケ崎城)を中心に武家町全体に当たる面積約34.8ヘクタールが「重要伝統的建造物群保存地区(金ケ崎町城内諏訪小路)」に指定されています。

金ケ崎町には11棟の武家屋敷(旧大沼家住宅は金ケ崎町指定有形文化財)が存在しており、その内8棟は近世の建物で生垣と屋敷林による独特な町並みとなっています。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている地域は、全国で86地区。東北地方では、弘前市仲町、黒石市中町、仙北市角館、下郷町大内宿と、ここ金ケ崎町城内諏訪小路の5地区だけ。これで東北の五ヶ所は制覇したことになりました。

こちらはその名も達(だて)小路にある、大松沢家。江戸時代後期に造られた四脚門とエグネに囲われています。

全く人が居ない日曜日の朝。素晴らしい建物があります。

二度の大地震の爪あとは見られませんね。
福島市民家園にある、会津の商人宿と似てるような気がしました。

でもこちらのほうがずっとモダンですね、江戸時代風ではない。

縁側に腰をかけて珈琲をいただくことも出来ます。
イロハモミジの花でしょうか?

諏訪小路にある、旧坂本家住宅。こちらでは、馬に関する展示が行われていて、街の人が10数人集まっていました。

変わった床の造りの縁側、此処でも珈琲をいただけます。

伊達藩士と言っても、実際は半士半農、隣の畑では曲がりネギが作られていました。

細目家庭園の入口。綺麗に刈り込まれた生垣はツツジのようです。ちょっと遅かった。

城内の東の縁に出ると、北上川が見渡せます。日高見の郷でもあったのですね。

変わった意匠の蔵。ちょっとバナナマン風。

こちらはもう昔のカタチを保っていないかな。

そんなタイムスリップしたような街、金ケ崎でした。

ちょうど一時間半、街をぶらついて、たくさん写真を撮りました。主な画像は、Nikon OnlineGalleryのアルバム金ケ崎城下町にも、時系列でまとめてありますのでどうぞ。スライドショーも楽しめます。
帰りの前沢SAで昼飯。前沢牛ハンバーグランチです。1260円。

別にハンバーグは前沢牛でなくてもいい感じ。
また東北道を爆走して仙台に戻りました。

14時に帰宅。 結構走ったので、腰が痛くなりました。
後ろの建物は、白糸まちなみ交流館。

トイレを借りて、地図をもらおうと思ったら親切なお母さんが、目印と見所を丁寧に教えてくれました。
なんとこのお母さん。震災当日は宮城野区で、街並み保存か何かのの講演中、ここまで戻ってくるのに三日かかったそうです。

此処は胆沢郡金ケ崎町。岩手県では市町村合併で、地方自治体の広域化が進んでおり、南の方でも、一関市や奥州市、北上市はずいぶん広い市域になっていますが、この金ケ崎は平泉と共に、孤立して頑張っている町の一つです。
北上市と奥州市に挟まれた町。ちなみに金ヶ崎ではなく金ケ崎。大きいケですね。
街並みは生垣に特徴があります。

ちょっと沖縄っぽいかも。
伊達藩領の北の端にあたります。だから前述のお母さんも、仙台から来たと聞いて大喜びしてくれたわけ。
ここまでが陸前だったわけで、世が世ならば、ここも宮城県だったかも。
金ケ崎城とか、金ケ崎要害と呼ばれる町内、自治会掲示板は町内ではなく、城内。かっこいいですね。

北の強藩、南部藩との国境、重要なお城があったことは言うまでもありませんね。
今も自然の水系を利用したと思われる、お堀には水が流れています。

岩手県の街並みを紹介するサイトから引用。
金ケ崎町の平安時代は蝦夷と中央政権の勢力が入り混じる地域の1つで、蝦夷の俘囚の長であった安倍氏の軍事的拠点の鳥海の柵が築かれました。鳥海の柵は当時、難攻不落と呼ばれており「前九年合戦」では両軍の主力がぶつかり合う激戦地で、「陸奥話記」によると安倍頼時は鳥海の柵で流れ矢にあたり没したとされています。
近世に入ると伊達領に組み入れられ、南部藩と接する最北端に位置することから、北方警護と軍事的拠点とする為、要害屋敷(金ケ崎城)が築かれます。伊達領は領地が広大だった事から領内の重要拠点に21箇所の要害を設けましたが金ケ崎町もその1つとなりました。北上川と宿内川を掘りに見立て、そこに流れ込む支流を内堀化した城割りとなっています。
大町定頼によって造られた城下町、片平丁という町名も残っています。

金ケ崎城は平城ですがある意味天然の要害とも言え、古代では坂之上田村麻呂や白糸姫、源義家などの伝説が残っています。
要害屋敷(金ケ崎城)には伊達家家臣の大町氏が3000石で入り、城の周りに家臣団を配置、奥州街道沿いに商人町を形成、さらに外側の南北両端に足軽町を造り町の出入りを固めるなどの城下町の町割りを行いました。現在の金ケ崎町ではこれらの町割りだけでなく敷地割りもほぼ踏襲している珍しいケースで、要害屋敷(金ケ崎城)を中心に武家町全体に当たる面積約34.8ヘクタールが「重要伝統的建造物群保存地区(金ケ崎町城内諏訪小路)」に指定されています。

金ケ崎町には11棟の武家屋敷(旧大沼家住宅は金ケ崎町指定有形文化財)が存在しており、その内8棟は近世の建物で生垣と屋敷林による独特な町並みとなっています。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている地域は、全国で86地区。東北地方では、弘前市仲町、黒石市中町、仙北市角館、下郷町大内宿と、ここ金ケ崎町城内諏訪小路の5地区だけ。これで東北の五ヶ所は制覇したことになりました。

こちらはその名も達(だて)小路にある、大松沢家。江戸時代後期に造られた四脚門とエグネに囲われています。

全く人が居ない日曜日の朝。素晴らしい建物があります。

二度の大地震の爪あとは見られませんね。
福島市民家園にある、会津の商人宿と似てるような気がしました。

でもこちらのほうがずっとモダンですね、江戸時代風ではない。

縁側に腰をかけて珈琲をいただくことも出来ます。
イロハモミジの花でしょうか?

諏訪小路にある、旧坂本家住宅。こちらでは、馬に関する展示が行われていて、街の人が10数人集まっていました。

変わった床の造りの縁側、此処でも珈琲をいただけます。

伊達藩士と言っても、実際は半士半農、隣の畑では曲がりネギが作られていました。

細目家庭園の入口。綺麗に刈り込まれた生垣はツツジのようです。ちょっと遅かった。

城内の東の縁に出ると、北上川が見渡せます。日高見の郷でもあったのですね。

変わった意匠の蔵。ちょっとバナナマン風。

こちらはもう昔のカタチを保っていないかな。

そんなタイムスリップしたような街、金ケ崎でした。

ちょうど一時間半、街をぶらついて、たくさん写真を撮りました。主な画像は、Nikon OnlineGalleryのアルバム金ケ崎城下町にも、時系列でまとめてありますのでどうぞ。スライドショーも楽しめます。
帰りの前沢SAで昼飯。前沢牛ハンバーグランチです。1260円。

別にハンバーグは前沢牛でなくてもいい感じ。
また東北道を爆走して仙台に戻りました。

14時に帰宅。 結構走ったので、腰が痛くなりました。