Category: 欧羅巴追想
あれからもう20年
戦後の日本が長く米軍に占領されていたように、ドイツもまた占領下にありました。
8月15日に降伏していなかったら、北海道や東北はソ連に占領されていたかもしれないと言う説がありますが、当時ベルリンを訪れたに人は実感できる話です。
私が初めて西ベルリンに行ったのは1982年。(下のパノラマ写真は拡大できます)

第二次世界大戦後、ドイツは周辺部がフランスやソ連、ポーランド等に一部吸収され、本土も米露英仏に分割占領されます。
ある英国人に言わせると、第一次大戦後に英軍がドイツを占領してコントロールできれば次の大戦は起きなかったはず、だそうです。
良いか悪いかは別として、今現在、西アジアで起きている事実を見ると、人類は進歩していないことが判ります。

本土とは別に欧州一の大都会であったベルリンも四国に分割占領されたのですね。
その後日本の占領が解かれた(まだ解かれていない様な地域もあるんですが)のと同じくドイツ本土の占領も解かれました。
恐らく未だに英米仏軍が駐留している地域が西ドイツ、露軍駐留の部分が東ドイツとして1949年に独立したのですが、東ドイツの真ん中にぽっかりと存在していた西ベルリンはその後もドイツが統一されるまでは被占領地域だったのです。返還されるまでの小笠原諸島や沖縄と同じ。
デュッセルドルフからの航空便もルフトハンザではなく、BAかエールフランス。フランクフルトやミュンヒェンからはパンナムだったと思います。
車でも行けたのですが、東西ドイツ国境から100km以上のアウトバーン数本だけが許されたルートでした。

下の2枚はWebで見つけた写真。
ふだん人々が暮らしていた街のごく普通の場所に壁が築かれたことが判ります。
仙台だったら宮城野区と若林区の区界みたいな感じでしょうか。

今ではもう誰も思い出すことが無くなったあのペレストロイカから始まった東欧崩壊。
最初に往来が解放されたのはハンガリーかチェコスロヴァキアとオーストリアの国境線だったと記憶していますが、あっという間に東ドイツに拡がり、ついに1989年11月9日、東西ドイツの国境も、ベルリンの壁も、普通の国境になったのでした。

当時私が働いていた事務所にも東ドイツ出身のスタッフが3人いました。
冷戦時代、西独に縁故がある東ドイツ人は申請して順番を待てば、移住することは可能ではあったのですが、財産は全て没収、着の身着のまま、せいぜい鞄ひとつの身の回り品の携行しか許されませんでした。
ただ移住してきたドイツ人には、一人100万円ほどの特別補助金が西ドイツ政府から支給されたそうです。
ベルリンの壁崩壊の映像を見た一人のスタッフは、矢も盾もたまらなくなり国境へ。
旧友たちと抱き合って喜んだそうです。
私が日本に戻ったのが1990年6月。
その年の10月、ちょうどフォトキナの時期についに東西ドイツは統一を果たしたのでした。
統一ドイツ(国名は西ドイツと同じ、ドイツ連邦共和国)には滞在できず、その後一度も欧羅巴には行った事がないのですが、89年の11月から約半年、統合の雰囲気は味わうことができました。

どこの世界でも車好きは集まって薀蓄を傾けあうものですが、これはなんと東ドイツ製のトラヴァント、愛称トラヴィのミーティングです。
東ドイツのトラヴィは西のVW以上の国民車。恐らく当時8割以上はこの車に乗っていたと思われますが、壁崩壊以後、日に日にこいつが西側のアウトバーンに増えていったんですね。

当時私が乗っていた車は、メーター読みで230kmは出ましたから、通常でも150km以上のスピードで合法的に走っていましたが、このトラヴィと来たら、7-80kmしか出んのです、どう頑張っても。
100kmで走っている大型トレーラーたちが、このダンボールボディのトラヴィを追い越さなきゃならないので、追い越し車線がもう大変。
オマケに最高速で頑張って長時間走ればエンコする車もたくさん。

本当に邪魔でしたが、東西ドイツの統一は滅茶嬉しかったです。
あれから20年............なんですね。他の欧羅巴ネタはこちら。
でも、今朝の新聞によると、ドイツ国内の15%の人が、壁があったほうが良かったと思っているそうです。
8月15日に降伏していなかったら、北海道や東北はソ連に占領されていたかもしれないと言う説がありますが、当時ベルリンを訪れたに人は実感できる話です。
私が初めて西ベルリンに行ったのは1982年。(下のパノラマ写真は拡大できます)

第二次世界大戦後、ドイツは周辺部がフランスやソ連、ポーランド等に一部吸収され、本土も米露英仏に分割占領されます。
ある英国人に言わせると、第一次大戦後に英軍がドイツを占領してコントロールできれば次の大戦は起きなかったはず、だそうです。
良いか悪いかは別として、今現在、西アジアで起きている事実を見ると、人類は進歩していないことが判ります。

本土とは別に欧州一の大都会であったベルリンも四国に分割占領されたのですね。
その後日本の占領が解かれた(まだ解かれていない様な地域もあるんですが)のと同じくドイツ本土の占領も解かれました。
恐らく未だに英米仏軍が駐留している地域が西ドイツ、露軍駐留の部分が東ドイツとして1949年に独立したのですが、東ドイツの真ん中にぽっかりと存在していた西ベルリンはその後もドイツが統一されるまでは被占領地域だったのです。返還されるまでの小笠原諸島や沖縄と同じ。
デュッセルドルフからの航空便もルフトハンザではなく、BAかエールフランス。フランクフルトやミュンヒェンからはパンナムだったと思います。
車でも行けたのですが、東西ドイツ国境から100km以上のアウトバーン数本だけが許されたルートでした。

下の2枚はWebで見つけた写真。
ふだん人々が暮らしていた街のごく普通の場所に壁が築かれたことが判ります。
仙台だったら宮城野区と若林区の区界みたいな感じでしょうか。

今ではもう誰も思い出すことが無くなったあのペレストロイカから始まった東欧崩壊。
最初に往来が解放されたのはハンガリーかチェコスロヴァキアとオーストリアの国境線だったと記憶していますが、あっという間に東ドイツに拡がり、ついに1989年11月9日、東西ドイツの国境も、ベルリンの壁も、普通の国境になったのでした。

当時私が働いていた事務所にも東ドイツ出身のスタッフが3人いました。
冷戦時代、西独に縁故がある東ドイツ人は申請して順番を待てば、移住することは可能ではあったのですが、財産は全て没収、着の身着のまま、せいぜい鞄ひとつの身の回り品の携行しか許されませんでした。
ただ移住してきたドイツ人には、一人100万円ほどの特別補助金が西ドイツ政府から支給されたそうです。
ベルリンの壁崩壊の映像を見た一人のスタッフは、矢も盾もたまらなくなり国境へ。
旧友たちと抱き合って喜んだそうです。
私が日本に戻ったのが1990年6月。
その年の10月、ちょうどフォトキナの時期についに東西ドイツは統一を果たしたのでした。
統一ドイツ(国名は西ドイツと同じ、ドイツ連邦共和国)には滞在できず、その後一度も欧羅巴には行った事がないのですが、89年の11月から約半年、統合の雰囲気は味わうことができました。

どこの世界でも車好きは集まって薀蓄を傾けあうものですが、これはなんと東ドイツ製のトラヴァント、愛称トラヴィのミーティングです。
東ドイツのトラヴィは西のVW以上の国民車。恐らく当時8割以上はこの車に乗っていたと思われますが、壁崩壊以後、日に日にこいつが西側のアウトバーンに増えていったんですね。

当時私が乗っていた車は、メーター読みで230kmは出ましたから、通常でも150km以上のスピードで合法的に走っていましたが、このトラヴィと来たら、7-80kmしか出んのです、どう頑張っても。
100kmで走っている大型トレーラーたちが、このダンボールボディのトラヴィを追い越さなきゃならないので、追い越し車線がもう大変。
オマケに最高速で頑張って長時間走ればエンコする車もたくさん。

本当に邪魔でしたが、東西ドイツの統一は滅茶嬉しかったです。
あれから20年............なんですね。他の欧羅巴ネタはこちら。
でも、今朝の新聞によると、ドイツ国内の15%の人が、壁があったほうが良かったと思っているそうです。